巻5第14話 師子哀猿子割肉与鷲語 第十四
今は昔、天竺の深山の洞穴に、一匹の獅子が住んでいました。獅子は思っていました。
「私は百獣の王である。すべての獣を護り、哀れまねばならぬ」
同じ山に、夫婦の猿がありました。二匹の子をつくり育てていました。子が幼いときには、一匹を腹に懐き、一匹を背負って、山野に出て木の実や草の実を拾って養うことができました。しかし、成長してからは、二匹を抱き背負うことはできません。かといって、山野に出て木の実や草の実を拾わなければ、子を養うことはもちろん、自分たちの命も失われてしまいます。とはいえ、子どもたちを住みかにおいて出かけたならば、空から鳥がやってきて、食ってしまうでしょう。獣も寄って来て、子どもを奪って行こうとするにちがいありません。それを考えて外出しないでいると、疲労はつのり、餓死するしかなくなってしまいました。
猿は思いました。
「この山の洞に獅子が住んでいる。わたしたちの子をこの獅子に見てもらったらどうだろう。その間、わたしたちは山野に出て、木の実や草の実を集め、子を養い、自分たちの命も助ける」
猿は獅子の洞に赴き、言いました。
「獅子は百獣の王です。すべての獣を哀れむ存在です。私も獣のはしくれであり、哀れまれるべき存在です。私は二匹の子をつくり、彼らが幼ないときには、一匹を背に負い、もう一匹を腹に抱いて、山野に出て、木の実や草の実を集め、子はもちろん自分たちも養っておりました。しかし、子どもたちは成長し、背負うのも抱くのも難しくなりました。子どもを連れて山野に出ることができません。子はもちろん、私たちの命も絶えようとしています。かといって、子を置いていくこともできません。獣がやってきて子が危なくなります。そのために出かけずにいたら、疲れが生じ、飢えて命を失うほどになってしまいました。獅子よ、わたしたちが山野に出て木の実・草の実を集める間、子をあずかって、護ってもらえませんか。そうすれば、平安に子を置いていくことができます」
獅子は答えました。
「よくわかった。すみやかに子をつれてきて、私の前に置くがいい。おまえたちが出かけている間、私が護ってやろう」
猿はおおいに喜び、子を獅子の前に置き、安心して山野に走り出で、木の実・草の実を集めました。
獅子は、猿の二匹の子を置き、よそ見もせず見守っておりましたが、そのうちに眠くなり、居眠りしてしまいました。そのとき、一羽の鷲が来て、洞の前の木に隠れ、「少しでも隙があるようなら、猿の子をさらっていこう」と考えていたのです。鷲は獅子が居眠りした隙に近づき、左右の足で猿の二匹の子をつかみ、近くの木に飛び移り、猿の子を食べようとしました。
目を覚ますと、二匹の猿の子がいなくなっています。驚いて洞を出てみると、向かいの木に鷲がとまり、左右の足でつかんだ猿の子二匹を、今まさに食べようとしているところでした。
獅子はこれを見てとても驚き、鷲がとまった木の根元で言いました。
「鷲よ、おまえは鳥の王でしょう。私は獣の王です。たがいに王としての思慮があってしかるべきです。猿が私の傍に来て言いました。『木の実・草の実を拾って子を養い、自分の命も助けようとしたが、二匹の子があるためにうまくいかない。わたしたちが山野に出ている間、子を護ってください』そう言って預けていったのに、私は居眠りしてしまい、あなたに奪われてしまいました。どうか子を返してください。私は親猿に承諾の返事をしながら、子を失ってしまったことが、肝も心も割かれるように思えます。子を失ったなら、私は怒り、吠えののしることでしょう。そうなれば、あなたも心安らかにはいられないはずです」
鷲は答えました。
「あなたがおっしゃるのはもっともです。しかし、この猿の子二匹は、返すわけにはいきません。これは、私の今日の食事に当たるものです。これを返してしまったら、私の今日の命が絶えてしまうでしょう。獅子が怒り吠えるさまは怖しくはありますが、命を思えば仕方ありません。返すことはできません。これは私の命を助けるために必要なのです」
獅子は言いました。
「あなたがおっしゃることは、まったくそのとおりだと思います。では、猿の子のかわりに、私の肉をさしあげましょう。これを食べて、今日の命を助けるといい」
獅子は剣のような爪で、自分のももの肉をつかみだし。ちょうど猿の子二匹と同じ大きさにして、鷲に与えました。
そのうえで猿の子を乞うと、鷲は言いました。
「返さない理由はありません」
獅子は猿の子二匹とともに、血まみれで元の洞に帰りました。
やがて、猿の母が木の実・草の実を集めてやってきました。獅子があったことを話すと、猿は雨のように涙を流しました。獅子は言いました。
「おまえが言ったことを重く考えたのではない。約束したにもかかわらず、それを護らないことが怖ろしかったからだ。また、私はすべての獣を哀れむ心が深かったからだ」
獅子は釈迦仏、雄猿は迦葉(かしょう)尊者、雌猿は善護比丘尼です。二匹の猿の子は、阿難と羅睺羅です。鷲は、今の提婆達多であると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】
西村由紀子
【校正】
西村由紀子・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
西村由紀子
前話が兎、この話が獅子で主人公こそ変わっているが、どちらも信義をつらぬくためにみずからの身体を傷つけたことで共通している。同じ話は『大智度論』『大方等大集経』などにある。
獅子とはライオンのこと。中国・朝鮮・日本にはいないので想像上の動物であるが、インドには生息しており、王権を象徴する獣とされている。インドライオンはアフリカのライオンよりたてがみが短いのが特徴だそうだ。
インドには猿を神とする信仰があり(ハヌマーン、孫悟空の元ネタになった)、ここでの猿はそれと関連づけて考えることもできそうだ。
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