巻1第38話 舎衛国五百群賊語 第卅八
今は昔、天竺の舎衛国(しゃえこく、コーサラ国)に五百人の盗賊がおりました。波斯匿王(はしのくおう、プラセーナジット王)は盗賊たちをみな捕らえ、重い咎(刑)を課しました。両目をえぐり、手足を切断して、高禅山という山のふもとに追い払ったのです。
盗賊たちは思いました。
「私たちは目がなく、手足がない。しかし命は絶えていないから、飢餓の苦しみが堪えがたい。どうやって食物を得たらいいのか」
ある者が嘆き悲しんで言いました。
「私たち五百人は、今や人に非ざる者になってしまった。割れた器のようなものだ。現世ではこうして片輪者となり、辛苦悩乱している。来世もまた、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に生まれ、苦を受ける事は疑いない。足があったなら、仏の御許に詣で、救いを求めることもできるだろう。手があったなら、合掌して礼拝することもできるだろう。目があったなら、仏の姿を見ることもできただろう。しかし私たちにはそれができない。現世もそして来世も、無為に過ごし、苦しみ続けなければならないのだ」
おのおのが嘆き悲しんでいるとき、盗賊のひとりが悟って言いました。
「仏が世に生まれたのは、一切衆生の苦を除き、救うためだという。私たちは異口同音に仏の御名を唱え、『苦からお救いください』と祈ろう」
盗賊のひとりが答えました。
「以前、目が明らかで、手足を自由に動かすことができたとき、私たちは仏を礼拝せず、法を聞かず、僧を敬わなかった。三宝(仏法僧)の物もはばかることなく盗んだ。今さら助けてくださることはないだろう」
別の盗賊が言いました。
「仏は平等にわけへだてなく慈悲の心を持っているという。親が子を愛するように、あわれんでくださるという。たとえ以前、三宝の物を犯したとしても、それを悔いているならば、どうして利益(りやく)を与えてくださらないことがあるだろう。仏の御名を唱えつづけ、利生に預かろう」
五百人は異口同音に声をあげ、「南無釈迦牟尼仏。私たちを苦からお救いください」と言い続けました。
そのとき、声に応じて、仏は高禅山のふもとに至り、光を放ちました。五百人の盗賊たちを照らされ、同時に目が開き、手足がはえ、以前と同じ十全の身となり、仏を礼拝恭敬しました。さらに、全員が羅漢果を証し(聖者となり)、御弟子となりました。彼らは霊鷲山の五百羅漢と呼ばれるようになりました。
逆罪を犯した者でさえ、仏を念じれば、利益(りやく)を得ることができます。いわんや善心を備えた者が、心を至して仏を念じ奉るならば、それがむなしく終わることがあるでしょうか。目を失った者が目を生じ、手足を失った者が手足を生じたことさえ貴いことであるのに、みなが羅漢果を証し、仏の御弟子となることができたのです。そう語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
釈尊の重要な弟子が五百人あったという伝承に基づいている。いわゆる五百羅漢の創成秘話である。
『大般涅槃経』にある話。
釈尊が入滅した後、その教えを経典にまとめる作業(結集)も五百羅漢が本拠とする霊鷲山でおこなわれた。
五百という数字は『今昔物語集』に頻出するが、じっさいに数が五百ということではなく、「たくさんの」という意味で使われていることが多い。
五百とは数えるにはちょっとしんどい数字であるし、五百人収容のライブハウスとか劇場といえばけっこうな規模である。満員にできるなら、その興業はまちがいなく成功だろうし、それが可能なバンドや劇団は人気があるといっていいだろう。
知らない人も多いかもしれないが、三十人で満員御礼になっちゃうようなハコ、たくさんあるんだよ。そこを満員にできないバンドも劇団もいっぱいある。一回は親戚や友達を集めればなんとかなるかもしれない。だが、数回となればどうしたって人気が必要なんだ。
(巻一 了)
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